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2016年1月号 
「わたしが来たのは、(…) 罪人を招くためである 」
(マタイ9・13)
主任司祭 カレンガ神父

   12月8日、無原罪の聖マリアの祭日から、教会は「いつくしみ」の特別聖年の歩みを始めました。その中にあって2016年という新しい年を迎えた私たちが、神の「いつくしみ」の宣教師となれますように共に祈りましょう。

 なぜ「今」「いつくしみの年」なのかという疑問を持っている人が多いのではないかと思います。その疑問を払拭するために、「いつくしみの年」を定めた教皇フランシスコが司祭の道に導かれた「出来事」に触れるとよいでしょう。

 それは、教皇フランシスコが17歳の時、祈るために教会を訪れ、そして告解室を出た時の出来事でした。ゆるしの秘跡を通して、神の愛と「いつくしみ」を体験した教皇様は、司祭になるための神からの招きを強く感じたのでした。その日は、たまたま、使徒マタイの祝日 (9月21日)だったので、教皇フランシスコは、自分の召命は、当時の社会で罪人とされていた徴税人であるマタイの召命に似ていると思ったのです。そこで、教皇様は、マタイの選びの場面のこの注解(イングランドの聖ベダ司祭(8世紀)の説教集から)を、司教としてのモットーとすることになりました。
ラテン語で、Miserando atque eligendo。
※「あわれみ」→そして(更に)→「選んだ」
イエス様は、徴税所に座っているマタイを、いつくしみに満ちた愛をもって見つめ、そして彼を選んだのです。

 教皇フランシスコは、枢機卿達の選びを受諾する時にも、神はゆるしを必要とする罪人をあえて選ぶと言う意識をもっておられました。「わたしは罪人です。しかし、主イエス・キリストのご慈悲と限りない忍耐に信頼し、悔い改めの心をもって受諾します」と。

 現代社会において、私たちは、失敗や過去に犯した罪から、その人をゆるしていても、あえて責任ある立場に就かせると、任命責任が追求されるのを恐れたりするでしょう。 また、だれにも迷惑をかけなかったら罪人ではないという現代人の罪の意識の希薄さ、そして、倍返しが風潮となっている現代社会に必要なのは「積極的ないつくしみ」ではないかと思います。

 「積極的ないつくしみ」とは、ゆるして、セカンド、サード、更に無限のチャンスを与え合うことです。イエス様は、マタイやペテロなどの「ゆるし」「そして(さらに)」「選び」で、人々に驚きを与えました。「なぜあなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」(マタイ9・11)。

 2016年が多くの方にとって恵みの年となり、そしてこの恵みの年を機に宝塚教会共同体の私たち一人一人が「積極的ないつくしみ」を武器に掲げて周りに驚きを与えるものとなりますように。

 

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