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私たちは四旬節の歩みを経て、復活節の「よろこび」を味わっています。新しい兄弟姉妹を迎えた「よろこび」、そして、新しいメンバーと一緒にキリスト教信仰の土台を確認できた「よろこび」です。
キリスト教信仰の土台は次の2つにまとめられます。①イエス様は私たちと多くの人のために死んだということ。②主イエスは、私たちと多くの人のために復活したということです。
イエス様の復活について、ニケア・コンスタンチノープル信条には「聖書にあるとおり三日目に復活し(た)」と書かれています。この使徒パウロからの引用の言葉の意味を皆さんと共に黙想したいと思います。
まず、パウロがこの手紙を書いた時代は、聖書というと旧約聖書を指していました。しかし、旧約聖書の中では、はっきりとイエス様は三日目に復活するということは書かれていません。では、私たちは使徒パウロの上記の表現をどのように理解したらよいのでしょうか。
「聖書に書いてあるとおり三日目に復活した」という表現を、私たちは、イエス様の復活は神の(救いの)計画、あるいは神の約束に適ったものでしたと理解したらよいと思います。旧約聖書によりますと「三日目」は神様による救いの約束を表しています。例えば、「三日目がある」と言ったら、神は介入してくるという意味を持っています。
神はイサクを救うためにアブラハムに解決策を示したのは三日目でした。 『三日目になって、アブラハムは……「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今わかったからだ。…」(創世記22・4ー12)』
ヨセフが兄弟を解放したのも三日目でした。『三日目になって、ヨセフは彼らに言った。「こうすれば、お前たちの命を助けてやろう。わたしは神を畏れる者だ…」(創世記42・18)』。
また神様は三日目にシナイ山のふもとで集まっている民に現れたのです。
「三日目のために準備させなさい。三日目に、民全員の見ている前で、主はシナイ山に降られるからである。(出エジプト記19・11)」
「三日目の朝になると、雷鳴と稲妻と厚い雲が山に臨み、角笛の音が鋭く鳴り響いたので、宿営にいた民は皆、震えた(出エジプト記19・16)」。
ヨナがようやく安住の地にたどり着いたのも勿論三日目でした。「さて、主は巨大な魚に命じて、ヨナを呑み込ませられた。ヨナは三日三晩魚の腹の中にいた(ヨナ記2・1)」
預言者ホセアも三日目の信仰を告白しています。「二日の後、主は我々を生かし 三日目に、立ち上がらせてくださる。我々は御前に生きる。 (ホセア6・2)」
このように「聖書に書いてあるとおり三日目に復活した」という「三日目」 は時間を表すものではなく、希望と命の勝利を表しているのです。三日目の神の介入を告白している私たち一人ひとりが、たとえ喜ぶことの出来ないようなことや、悲しみや苦しみや不安の中にあっても、最終的には神様が私たちに「よろこび」を与えてくださることをも信じることができますように。
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