カトリック宝塚教会  月報「よろこび」  巻頭言  カトリック宝塚教会のロゴ
2016年6月号 
「見失った羊を見つけた…」
(ルカ15:6)
主任司祭 カレンガ神父

   わたしたちが、神の言葉として信じている聖書の中で、羊のシンボルがよく出てきます。イエス様を神の小羊と呼んだりもします。この度、「いつくしみの特別聖年」のロゴに照らし合わせながら見失った羊について考えてみましょう。
 ユダヤ人にとって、羊は人の富のシンボルでした。持っている羊の数で、その財産がわかるということでした。ここで、次の聖書の言葉を心に留めましょう。「あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。 (マタイ6:21)」
 また聖書の中で羊は、神に捧げるにふさわしい動物として紹介されています。約束の子イサクの代わりに生贄として捧げられた羊が有名です。(創世記 22 )
 イスラム教の国々では、神への生贄として息子を捧げようとしたアブラハムの行いを記念したお祭りがあります。 子羊を屠殺してその肉を食べるという「羊祭り」または「犠牲祭」で、1年で最も重要な祝日と言われています。
 神様とその民の関係を表すために聖書は、「羊飼いとその牧場の群れ」ということを語っています。「主はわれらの牧者‥‥(詩編23 )」はその関係を見事に物語っています。それにもかかわらず、神の民であるイスラエルは神に背き、人間の都合で神々を崇めるようになります。その流れの中で、見失った羊という言葉が、主に預言者たちの口から、登場します。
 「わたしが小羊のように失われ、迷うとき どうかあなたの僕を探してください。あなたの戒めを決して忘れません。 (詩編119:176)」
 「わが民は迷える羊の群れ。羊飼いたちが彼らを迷わせ、山の中を行き巡らせた。彼らは山から丘へと歩き回り、自分の憩う場所を忘れた。 (エレミヤ50:6)」
 「彼らは飼う者がいないので散らされ、あらゆる野の獣の餌食となり、ちりぢりになった。 (エゼキエル34:5)」
 福音書記者たちは、「羊飼いとその牧場の群れ」の表現を引用してイエス様が神の子であるということを教えました。同時に、ファリサイ派の人々と律法学者たちの弱い者に対しての、心の狭さと冷たさを浮き彫りにしました。ファリサイ派と律法学者たちは、罪人を受け入れ、共に食事をするイエスを批判していたからです。
 その批判に答える形で、イエス様は罪によって見失った羊が、見つかった時のご自分のよろこびを語るのです。自分でも、気付かぬ間に迷子になってしまったとしても、必ず命がけで、自分を探し出してくださる方が、イエス・キリストだと聖書は教えるのです。
 今、「いつくしみの特別聖年」の真最中にあって、悩み、苦しみ、信仰の道から逃げ出してしまった友を見つけた時に、あなたはどうしますか。無理に元の場所(信仰の道)に連れ戻すのでしょうか。それとも、元の場所(信仰の道)にたどり着くまで、ただその友と肩を並べて共に歩むのでしょうか。後者がいつくしみの特別聖年のロゴの意味といつくしみの特別聖年が目指していることではないでしょうか。
 見失った羊について、「いつくしみの特別聖年」のロゴに照らし合わせやすいように、若干直した以下のロゴの解説を味わいましょう。
 「ロゴに描かれているのは、迷い出た人間を連れ帰るために両肩で担ぐイエス・キリストです。ロゴは、よい羊飼いが人のからだにしっかりと触れ、それもその人の人生を変えるほどの愛を込めて触れるということがよく伝わるようデザインされています。よい羊飼いは、最高のいつくしみをもって全人類を担っていますが、その目は、背負われた人の目と合体しています。キリストはアダムの目を通して、アダムはキリストの目を通して見るということです。ですからわたしたち一人ひとりは、新しいアダムであるキリストのうちに、自らの人間性と待ち受ける未来を見るのです。そのまなざしの奥にある御父の愛を見つめながら……。」  
 

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