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聖書に出ている「よきサマリア人」 の物語は、時代や国境を越えて、多くの人に親しまれています。「いつくしみの特別聖年」も、後半に入り、4か月余りで終わりを迎えようとしている今、もう一度、この物語を繰り返し読む選択をしてみては如何でしょうか。この物語を読むと、キリスト教の教える愛といつくしみは、抽象的なものではないということが改めてわかると思います。パウロが言うように、「キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです」(2コリント5:14)。私たちもこの特別な恵みの年を、何もしないで終わらせないように祈りましょう。
この特別な恵みの年を、何もしないで終わらせないために、わたしたちは何をしたら良いのですか。きっと、多くの皆さんは律法学者のように、この問いを持っているのではないでしょうか。この問いは、私たちを、よきサマリア人の物語の肝心なところへと導きます。この物語を読む時に、目を向ける点はどこにあるのでしょうか。私たちは、強盗に襲われた人を見た時、面倒に巻き込まれたくなかった祭司やレビ人(神殿の奉仕者)
を批判するよりも、強盗に襲われた人に関わり、あるいは巻き込まれた親切なサマリア人に目を向けることが大切ではないでしょうか。 最初の二人は、神殿での礼拝に関わる人々です。三人目はユダヤ教からの離教者であるサマリア人で、異邦人や異教徒、汚れた人と思われている人です。
教皇フランシスコの解釈では、祭司やレビ人は、教会の司祭と教会に通っている信徒で、教会で典礼をはじめ、奉仕活動に携わっている信者であるのかもしれません。聖書全体を頭で理解し、典礼規定、評議会の規約や教区のきまりなどをすべて理解したとしても、知識から愛(いつくしみ)が自動的に生じるわけではありません。わたしたちは知識から愛(いつくしみ)の世界に飛躍しなければいけないのではないでしょうか。知識から愛に移ることの大切さを伝えるために、ある方が次のことを教えてくださいました。「わたしは若い頃は、頭のいい人に憧れていましたが、今は頭のいい人ではなくて、優しい人、親切な人に憧れるようになりました」と。また、私の国の多くの人は、国民的歌手が歌った次の言葉に親しみを持っています。わたしは‥頭が良くて、大学に進学し、恋愛(
愛、いつくしみ)以外、すべての科目の成績は優秀でした。‥‥愛、いつくしみには教科書、マニュアルがないからねと。
では、 愛に飛躍できたサマリア人の秘訣に目を向けてみましょう。彼は、「この人」を助けたら」 『自分』 がどうなるかということを顧みずに、むしろ、「この人」を助けなかったら「この人」がどうなるのかということしか考えませんでした。現代人でしたら、ソーシャルメディアに載せるためのビデオや写真を撮るかもしれませんが、サマリア人にはその暇がありません。このサマリア人の行いは同情によるものではなく、共感から生じるものなのです。共感はやはり、関わりから出るのです。国際社会や日本国内の問題、教会の問題などに、関わりたくないという私がいるという気付きが何よりも大切ではないでしょうか。その理由はいくらでもあるでしょう。面倒な事件だからとか、自分も襲われる危険があるのではないかとか、急ぎの仕事があるから‥等々あげられます。
「隣人とは誰か?」という律法の専門家の問いに対して、 イエス様は「誰が隣人になったのか?」と問い返しました。それは、隣人を探すことが一番大切なことではなく、隣人になって関わっていくことが一番大切なことなのではないでしょうか。このように考えますと、隣人は追いはぎに襲われた人ではなく、サマリア人本人であることがわかります。サマリア人は神のいつくしみの顔であるイエス様です。そこで、イエス様のこの命令「行って、あなたも同じようにしなさい」(ルカ10:37)
は、キリストのように神のいつくしみ、神の愛を伝えなさいに聞こえてきます。ミサの派遣の言葉「行きましょう、主の平和のうちに」も同じように聞こえてきたらよいかと思います。
最後に教皇フランシスコのこの言葉を味わいましょう。
礼拝(ミサ)は 「隣人への奉仕として表れなければ、それは真の礼拝ではありません。このことを忘れないでください。飢餓や暴力、不正義によって衰弱している、非常に多くの人々の苦しみを前にして、わたしたちは傍観者となることはできません。人の苦しみを無視することは何を意味するのでしょうか。それは神を無視することです。もしわたしが苦しんでいるその男女、その子ども、その高齢者に近づかないなら、神の近くにはいないのです」。
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