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教皇フランシスコによって定められた「いつくしみの特別聖年」は、少しずつ終わりを迎えようとしています。この恵みの期間が終わっても、イエス様は、教会などを通して、私たちに「いつくしみの目」を注ぎつづけて下さると確信しています。
先月は、特に十字架上でのイエス様の「いつくしみの言葉」について黙想しました。今月は、十字架にかけられる直前のイエス様の姿を、皆さんとともに黙想したいと思います。
不法な裁判を受けているイエス様に目を向ける前に、先ず、ゲツセマネの園にいるイエス様に目を向けてみましょう。エデンの園で誘惑に負けたアダム (創世記
2〜) に照らし合わせて、ゲツセマネの園では、誘惑に負けなかったイエス様の物語 (マタイ26:36〜;マルコ14: 32〜;ヨハネ18:1〜)を読むとよいでしょう。
誘惑における勝負は、神のみ心を行うことです。イエス様はゲツセマネの園で、神のみ心を行うことに一生懸命でした。3度イエス様は次の祈りを捧げます。
「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに(マタイ26:39) 」。その理由で自分を逮捕してくる人にははむかいませんでした。また、自分に代わって戦うことも許しませんでした。
神のみ心を行うため、そして自分の命を「おく」事を示すために次のように述べました。 ペテロには「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。わたしが父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。しかしそれでは、必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されよう。
(マタイ26:52〜54)」。
自分を裏切ろうとするユダには 「友よ、しようとしていることをするがよい(マタイ26:50)」。
不法な裁判を受けるイエス様の神秘的な存在が、沈黙と短い言葉で目立ってきます。その幾つかのみ言葉を黙想してみましょう。
群衆には、「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持って捕らえに来たのか (マタイ26:55)」。平手で自分を打つ者には 「何か悪い事をわたしが言ったのなら、その悪いところを証明しなさい。正しいことを言ったのなら、なぜわたしを打つのか
(ヨハネ18:23)」と。
イエス様の沈黙や言葉に示された「いつくしみのみ顔」は弱さに見えますが、それは、迫害者を回心に導かれたみ顔ではないかと思います。イエス様の死に関わった百人隊長や、イエス様の見張りをしていた人々の次の言葉は、その回心を表しています。「本当に、この人は神の子だった(マタイ27:54)」。
「神の子」である私たちも、挑発された時や、身に覚えのないうわさをされた時など、自己弁護したとしても、@ リベンジだけはせずに、A ゆるしの余地を残して「おく」、また、ゆるしの門を開けて「おく」者となれますように。「剣をさやに納めなさい
(マタイ26:52)」。
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