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私たちは、皆保護者に育てられて成長します。若いうちは保護者の愛情に甘えてばかりで、自分が保護者になった時にその苦労がわかって来ます。永遠に、神さまの愛に甘えてばかりいる私たちは、果たしてその愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解することができるのでしょうか(エフェソ3:19参照)。神の愛と慈しみを体験したイスラエルの人々はその驚きを隠しませんでした。「主の成し遂げられることは栄え輝き恵みの御業(みわざ)は永遠に続く(詩編
111:3〜6, 10参照)」と。コヘレトは神の業から生まれた驚きを次の言葉で表しています。「神がなさることは時宜にかなって美しい(3:11
) 」。
神であるイエスのなさることを見た人々は驚きを持って、「この方のなさることはすべて素晴らしい(マルコ7:37)」と言いました。しかし、聖書の中でイエスのなさることをみてイエスを軽んじる場面もあります。「身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。『あの男は気が変になっている』と(マルコ3:21)。」「そして、イエスの着ている物をはぎ取り、赤い外套を着せ、茨で冠を編んで頭に載せ、また、右手に葦の棒を持たせて、その前にひざまずき、『ユダヤ人の王、万歳』と言って、侮辱した(マタイ27:28〜29)」。 「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから。」(マタイ27:42〜43)。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ
(ルカ23:39)」。
神がなさること(業)を見て、あなたはいつも喜んで受け入れ、賛美と感謝する人でしょうか。それともいつも不平不満ばかり言っている人でしょうか。その問いに答えるために100匹羊を飼っていた羊飼いの例え(ルカ15:1〜7)を読むとよいでしょう。99匹を放り出して1匹を捜しに行き、しかも見つけ出すまで捜し回るという羊飼いのことをどのように思いますか。この問いに対していろんな所でのワークショップで頂いた答えを紹介します。もしかしたらあなたの答えに近いのかもしれません。「えっ?1匹だけを特別扱いするなんて、そんなアホなことはしないと思う」と。この例えを日本の教会に重ね合わせて考えると、教会に踏みとどまりながらも、迷い出ている状態の羊と、教会を迷い出て離れてしまった羊の群れが99匹で、教会で毎日幸せそうに暮らしている羊が1匹に当たると言えるのではないでしょうか。イエスの例えの逆転でしょうか。
教会は組織を守ろうとするあまりに、気の合った仲間同士の繋がりが強くなりがちです。賢くて、勇気のある強い1匹の羊を残しておいても私は、弱い羊の中にさらに弱くされた99匹の羊を捜しに行く牧者になりたいのです。
「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである(マルコ2:17)」とイエスは言っているからです。信徒の皆さんはどう思われますか。 |
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