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私たちは今、教会の典礼の中心である復活節の最中を歩んでいます。神様が「私たちのために」独り子イエスを死に渡されたこと、復活させられたという記念すべきことを、感謝してたたえます。
それに合わせて、私たちの日常生活において、神様がなさる業を思い起こし感謝して過ごしましょう。「神様が私たちと共にいて」、「私たちを導いてくださっている」ことは感謝すべき一つの神様の業ではないでしょうか。「
あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖/それがわたしを力づける(詩編23: 4 )」
私たちを導くために、永遠の牧者である神様は弱い人間の協力を求めます。モーセ、ヨシュア、ダビデ、ペテロとその後継者、司教、司祭と助祭、両親、先生方などが神の協力者の例としてあげられます。神様はご自分の望んだ協力者に頼もしいみ言葉を告げられました。「強く、また雄々しくあれ。あなたこそ、わたしが彼らに誓った土地にイスラエルの人々を導き入れる者である。わたしはいつもあなたと共にいる
(申命記31:23)」、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ(2コリント12:9)」「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい
(ルカ22:32) 」
神様とその民、その間に立てられた牧者に、ダブル戦いが待ち受けています。それは、「神様の望み」と、「牧者自身の望み」との戦い、そして「神様の望み」と「その民の望み」との戦いです。
神様と私たちの間に立てられている永遠の牧者であるイエス様も、そのダブル戦いを体験したと言えるでしょう。民を代表してその望みを述べられたペテロには、イエス様は次のよう言われました。「サタン、引き下がれ。あなたは私の邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。(マタイ:16-23)と」 また、ゲッセマネの園でイエス様はどれだけご自身の思いと父の思いと戦ったことでしょう。その戦いはヤコブ(イスラエル)と神様との戦いのようなものです。神様に対する戦いではなくて、神様と一緒にする戦いです。ゲッセマネで神様と一緒に戦ったイエス様は勝利をおさめました。
司牧者として、神様と一緒に戦っているイエス様の姿と、弟子たち(民の代表)の姿を黙想したいのです。
ゲッセマネの園でイエス様が「私を離れず、目を覚ましていなさい」と弟子たち(民の代表)にいくら言っても、弟子たち(民)は寝てしまいました。しかし、イエス様は父に対して完全な信頼もあって、寝ている弟子たちの姿に理解を示したように思います。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。もうこれでいい(マルコ14:41)」。それは弱い人間に対する神様の理解ではないでしょうか。この理解で以下の詩編のみ言葉を心に留めて頂ければと思います。「人をあてにするより、主を信頼したほうがよい
(詩編118:8)」。
司牧者としてまたキリスト者として、神様に完全に信頼を置き、人々と関わっていく中でこの詩編のみ言葉を繰り返し唱え、希望を持ち続けましょう。
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