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復活節第4主日はカトリック教会の典礼と共に歩んでいる人に、よい羊飼いの主日として知られています。その日の典礼は、よい羊飼いとそうでない羊飼いの比較をしています。羊の「愛し方」と、その「動機」でよい羊飼いをより分けることをイエスは教えてくださいました。また、私たちは、色んな場
(教会、職場、家庭、学校など)でイエスの代理となるように招かれています。私たち皆、置かれた場でよい羊飼いとなっているかどうかを量るために次の量りについて考えて見ましょう。「自分を
愛してくれる人だけを愛したからといって、取り立てて自慢できるでしょうか(マタイ5:46)」。
私たちにとって、自分が好ましいと思えるものだけを愛するというのは確かに心地良いことです。しかし、多かれ少なかれ、そのような「愛し方」は自分の利益と深く結びつきます。このような愛は、愛する対象に左右され、そして多くの条件や限定が付けられます。確かに成長するために限られた人(家族、友人など)との繋がりから生まれる安心、心地よさを誰しも求めています。しかし、自分に安心と心地よさを与えない者を敵扱いにしたり、自分の心地よさを脅かす者扱いにしたりすることはイエス様の教えとかけ離れています。同時に、イエス様は、人間関係において好き嫌いが激しさを増している現代社会に生きる私たちに警告を鳴らしているように思います。特定の人だけに愛を集中させていることは、私たちの造る教会の病、感染病的ではないかと思いますが如何でしょうか。このような病にかからないために予防接種を受けている司教、司祭 、信徒はいないでしょう。
何年か前に日本の教会が感染していることに気づき、その病名は「サロン化した教会」ということでした。司祭が囲いを作ってその中に特定の信徒を入れる場合もあれば、特定の信徒が囲いを作ってその中に司祭を入れるという場合もあります。いずれも、イエス様が提供するこのワクチンを受けることをお勧めします。「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる(ヨハネ10:16)」。「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである(マタイ5:45)」。
宝塚教会の私たちが、感情や損得を超えて、私たちが作っている囲いに入っていない羊をも世話することによって置かれた場でよい羊飼いとなることを願いましょう。 |
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