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私たちは教会と共に死者の月を過ごしています。今月、死という現実に司牧者の目を注ぎたいと思います。死者とその遺族のために祈り、共に私たちの一人一人が自分の死を考えることにしましょう。「神の母聖マリア、罪深い私たちのために今も死を迎えるときもお祈りください(アヴェマリアの祈りより)」。
死に対して、私たちは皆、自然に恐怖心、怒りとショックという感情を募らせます。親しい人との別れは誰にとっても悲しいことだからです。死は不当なことであると考え、その不当なことに対して私たちは無力さを味わいます。「死の前に私たちは全く無力です(死者の典礼より)」。「人間に救う力がない(詩篇146:3)」。恐怖を抱く私たちにイエス様は次のように教え励ましてくださいました。「だいたい、どんなに心配したところで、自分のいのちを延ばすことができますか(マタイ6:27)」。
すべての文化に於けるお葬式は、(突然の)別れがもたらしたショックと損失感に向き合う意味を持っています。お葬式に、どなたでも死に対する霊的な問いを持ちます。その意味で、お葬式は死という試練、死に対する疑問や怒りの受け皿であると言えるのではないでしょうか。
教会の典礼もそのショックと損失感と向き合う時間を与えてくださいます。「この世からあなたのもとにお召になった…さん を心に留めてください。(…)また復活の希望をもって眠りについた私たちの兄弟とすべての死者を心に留め、あなたの光の中に受け入れてください(第二奉献文)」。同じ理由で命日の典礼と死者の月が定められたのではないかと思います。
教会は死者をイエス・キリストの死と復活にしみ込んだ者と考え、その期間は三日三晩としています。死を偲ぶものも同様です。早く忘れたい時代、スピーデイな時代にスピーデイに片付けられないものがあったとしたら、死とお葬式がその一つではないでしょうか。
三日三晩を過ごしている間の心構えについては、パウロは教えてくださいます。「兄弟たち、既に眠りについた人たちについては、希望を持たない他の人々のように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っておいてほしい。イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます(一テサロニケ4:13−14)」。そして、幼きイエスの聖テレサのつぎの問いもその準備に役立つでしょう。日常生活の中で、ほんの少しの間、神様に会うために小さなこと(例えば、仕事、本、携帯、ゲーム、テレビ、など)を離れることのできない人は果たして、神様の永遠の光に入るためにすべてを離れることができるのでしょうか。
宝塚教会のわたしたち一人ひとりが希望のうちに死者と過ごすことを願いましょう。
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