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典礼の暦では、王であるキリストが一年の歩みの最後の主日となっています。
今年読まれるダニエル書の中には『「人の子」…が進み、権威、威光、王権を受けた(7:13−14)」』と記されています。イエス様はご自分のことを「人の子」(マタイ8:20; 9:6; 26:64; マルコ8:31…)と言われました。神学生時代には、「休みの日」のことを「人の子の日」と呼んでいました。それは主に自由であることを意味します。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。(マタイ8:20)」
しかし、イエス様の場合は、自由に加えて真理を表しています。自由と真理はイエス様が、父である神と共に、王となる国への道ではないかと思います。「わたしは道であり、真理であり、いのちである、わたしを通らなければ、父のもとに行くことはできない。(ヨハネ14:6)」私たちは、洗礼を受けた時にイエス様の王権に与り、イエス様と共に王となり、神の栄光を表す者となりました。
聖イレネオが言われるように「神の栄光は生きている人であり、人間のいのちは神を見ることである」と。世の中で栄光を受けるために、他の人を殺す道を選ぶのが一般的です。広い意味で人を殺すのです。例えば、出世するために、上の人に対して不当に批判したり攻撃したりします。
神様は栄光を受けるために人を生かすのです。人を生かすために、王であるキリストは、へりくだって人となられました。十字架の神秘によって人を持ち上げたことによって栄光を受けました。「わたしの国は、この世に属していない」と言うピラトへの応答の意味もよく理解できます。
また山上の説教で、イエス様は「心の貧しさを知っている謙遜な人は幸い 。神の国はそういう人に与えられるからです(マタイ5:3)」と教えました。キリスト教的に王となるための道はへりくだることです。英語では「We rise by lifting others.」と言います。
イエス様と共に王である私たち一人一人が、へりくだって他の人を持ち上げることによって、神の栄光を表す存在となりますように。
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