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皆さんは、二人の弟子が、エマオという村へ向かって歩きながら、イエス様の復活したことを知らず、エルサレムにての出来事について話し合っていた物語をご存知だと思います。ルカによる福音はエルサレムを揺るがしたイエスの十字架の出来事以後、突然静かになったような雰囲気から始まります。福音は言います。「話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。」(ルカ24・15)
皆さんは他の信者たちと話す時、よくイエス様について話されますか。いつの間にか、私たちの間で、イエス様に対する話しの代わりに、教会の仕事の話や誰かに対する話がメインになっているようです。ところが、イエス様は、弟子たちにもそうであったように、私たちがその方について話せば、私たちに近づいてきて一緒に歩き、私たちの話しをお聞きになります。このご同行は、今日の福音が知らせてくれるように、目が隠されてその方を知らない状態から、目が開かれその方を神様としてわかるように、自分のことだけを思う利己的な態度から、共同体や隣人に自分のものだと思ってきたことを譲るように導いてくれます。すなわち、主の復活が分からない状態から分かる心持ちに渡るように導いてくれるのです。これを分からなければ、隣人と共同体のための心配りが分からなければ、いくら毎日ごミサに参列して祈っても、それが神様のための真の信仰だと言えるのでしょうか。
では、イエス様は一体どんな方法で、彼らの目が開け、イエス様が分かるようになさったのでしょうか。福音はこれについて、聖書に対する説明とパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになることを通してだと答えます。実は、ごミサで行われることばの典礼と感謝の典礼はイエス・キリストに対する「記憶」とその方を「記念」することをもって信仰を成長させ、その方の現存をわからせる秘跡のところです。そして、イエス様はこれを毎日のミサの中で再現してくださいます。なぜなら、「わたしがあなたがたにしたことが分かるか。主であり、師であるわたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。」というお言葉のように、ごミサを通していただいた主イエスの愛といつくしみを私たちも共同体と隣人とのために実践することをお望みになるからです。
兄弟姉妹の皆様、周りに誰もおらず、どうか、み言葉を通して真の信仰に導いてくださり、ご聖体の秘跡を通して新しい命を下さる主イエス・キリストに真の感謝を差し上げることができますように、とお祈りします。
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