カトリック宝塚教会 月報 巻頭言  カトリック宝塚教会のロゴ

2024年 6月号
マリアは良い方を選んだ。」(ルカ10・42)
パウロ 朴起徳神父

   私たちはイエス様を愛し、その方に従うことを望んでいます。特に多くの奉仕者たちは、教会のために献身し奉仕しています。その奉仕において、常に心に留めておくべきことは何でしょうか?

 私たちはマルタとマリアに関する有名な物語を知っています。「イエスがある村にお入りになった時、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」(ルカ10・38-42)

 ある人はこのみ言葉がキリスト者の生活の2つの生き方、すなわち活動と奉仕、そして静かな沈黙の祈りについて語ることであり、奉仕や活動より祈りがさらに大切だと言います。単純に白黒論理で照らしてみればそう言うこともできるでしょう。では、神様のための奉仕と活動が沈黙の祈りよりその価値が低いのでしょうか? 聖書の学者たちは、その2つの価値を同等に考えています。イエス様の行いとみ言葉を見れば、活動と祈りが共になされ、ベネディクト修道会の「Ora et labora」、すなわち「祈り、働け」という有名なモットーでも分かるように、奉仕と仕事に集中したり祈りに集中したりします。ところが、どちらの場合も見逃してはならないことが一つあります。それは「聞き入ること」です。福音は「マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。」と言います。私たちはキリスト者として祈り、奉仕します。神様の御心を分かるために祈り、そのみ旨を行うために奉仕します。しかし、祈りをしたからといって、常に神様の御心を探すわけではないでしょう。むしろ祈りの中で自分の望みがより強く出てくる場合もあり、奉仕において神様の御心より自分の意思が先立つ場合も多いのが現実でしょう。それでは私たちはどうすれば良いでしょうか?

 イエス様は言われました。「マリアは良い方を選んだ。」このお言葉の核心は、良い方を選ぶのは自分次第だということです。奉仕であれ、沈黙の祈りであれ、優先的に大切なのは聞き入るために自分の心を開くことです。ごミサを例として考えてみると、ごミサは大きく言葉の典礼と感謝の典礼に分かれます。言葉の典礼には、み言葉を聞き、司祭の説教を通してみ言葉の意味を伝え聞きます。そして感謝の典礼には司祭の手引きを通して「これをわたしの記念として行いなさい」というイエス様のお言葉を心に込めて感謝と賛美に進みます。皆さん、しばらく自分を振り返ってみると良いと思います。聞き入る時間である言葉の典礼にて心を開いて聞いているのか、司祭の手と口を通して導かれる感謝の典礼にて心を込めて参加しているのか、それともマルタのように「多くのことに思い悩み、心を乱している」(ルカ10・41)のかを。

 大きなミサでも平日のミサでもその中で奉仕の役割がありますが、「主の足もとに座って、その話に聞き入る」(ルカ10・39)時間も確かにあります。主の救いと恵みは、イエス様がおっしゃっていた時マルタとマリアが同じスペースでいたように、すべての人々のためのことであり、その恵まれた時間の中でマリアのように良い方を選ぶのは完全に自分次第だということを覚えておいてほしいと思います。「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。」(ルカ10・41 - 42)

 
     

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