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イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。二度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われた。三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。」このように話してから、ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた。(ヨハネ21・15ー17、19)
イエス様は弟子たちと共になさったすべてのことをお仕上げになりながら、ペトロに羊の群れを任せました。ペトロがイエス様を知らないと3回も否認しましたが、イエス様は彼に「わたしの小羊を飼いなさい」と、使命を与えました。そして、その使命は「わたしを愛しているか」という問いとともに与えられます。ところが、福音でイエス様はこの問いを3回もなさいました。日本の聖書は「愛」という同じ単語を使いますが、聖書の原文は愛を意味する互いに違う言葉で表現します。
皆さんもお聞きになったことがあると思いますが、ギリシャ語には「愛」を意味する単語が3つあります。激情的で本能的な愛を意味する「エロス」、相手のことが好きな感情と愛情を意味する「フィロス」、自分を犠牲にしてまで相手を大切にし保護する「アガペ」という言葉です。「シモン・ペトロ、わたしを愛しているか」というイエス様の最初と2番目の問いには、相手のために自分を犠牲にするという「アガペ」の言葉が使われます。すなわち、イエス様は「アガペ」という言葉を通して「自分を犠牲にするほど私を愛しているか」をペトロに尋ねたのです。これにペトロは、相手を好きな感情を意味する「フィロス」という言葉を使って、イエス様を好きで嬉しい気持ちで従いますが、まだ自分を犠牲にするほどの愛ではないことを率直に告白したのです。イエス様のために命をささげるほどの愛なのかを尋ねるイエス様の問いと、イエス様が好きですが、自分の命をささげるほどではないというペトロの返事が2度繰り返されました。すると、イエス様は「アガペ」ではなく、ペトロのレベルに合わせて「相手のことが好きな感情を意味する「フィロス」を使って3番目に尋ねました。
福音は言いました。「ペトロは、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」」ヨハネによる福音はイエス様と弟子たちとの最期の瞬間でさえ、ペトロと代表される弟子たちが、依然としてイエス様に対する愛が人間的な愛に留まっていることを話したかったのです。すなわち、弟子たちがイエス様のように自分たちの命を犠牲にしてまで相手を愛する「アガペ」の愛に進めず、まだ人間的な「フィロスの愛」に留まっていることを間接的に示そうとしたのです。
それにもかかわらず、ペトロの愛は人間的な愛である「フィロス」からイエス様の愛である「アガペ」に進むことになるでしょう。ペトロをはじめとするすべての弟子たちはそのように不完全な愛を持っていましたが、徐々に神様の道を歩み、最期の瞬間にはイエス様のアガペを証言することとなるからです。「イエスはこのように話してから、ペトロに、わたしに従いなさいと言われた。」(ヨハネ21・19)
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