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「わたしは天から降って来たパンである。」「わたしは命のパンである。」
ヨハネによる福音はこの宣言のため、他の福音とは異なるように展開していきます。すなわち、他の福音は、5千人を食べさせた出来事を決定的なしるしとして提示し、仕上げました。しかし、ヨハネによる福音は5千人を食べさせた奇跡を提示した後、命のパンについて長く語ることを通して、その意味を深く掘り下げてゆきました。最初はパンの奇跡を見せて下さり、次はいつまでもなくならず、永遠の命に至る食べ物について教えて下さり、最後にはイエス様ご自身が命のパンであると宣言されることにまで、段階的に進んだのです。
イエス様は言われました。「 はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。」
ここで「永遠」と通訳されたヘブライ語の「עוֹלָם (オルラム)」という言葉は単純な時間的な概念だけを意味せず、ある状況や空間で行われる完全な充満を意味します。結局、永遠の命を得るということは、遠い将来のある時ではなく、今ここで充満を享受して生きることを意味し、これがまさに神の御心であり、そのためにイエス様が命のパンとして天から降って来られたことを宣言しているということです。
私たちはイエス様のお与えになる命のパンを通して、その方と出会います。そして、そのパンは、私たち一人一人が絶えず新しく成長していくことを願う主の愛です。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」と、イエス様が言われたような、私たちのためのその方の愛です。また、その愛は今、この瞬間に叶っています。
命のパンを拝領することの目的は、「食べること」ではなく「似ていくこと」にあります。パンを食べることが重要なのではなく、聖体の拝領を通してイエス様と一致し、イエス様に似ていくことが、大切なことだということです。そのため、使徒パウロは言われました。「皆さん、神の聖霊を悲しませてはいけません。互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。あなたがたも愛によって歩みなさい。」(エフェソ書4・30ー5・2)
兄弟姉妹の皆さん、私たちは、褒めるより悪口を言いやすく、許すより憎みやすく、耐えるより怒りやすい壊れやすい、土の器のように弱くて不完全な存在です。それにもかかわらず、命のパンとして来られたイエス様の愛と憐れみを通して、私たちもそのように似ていくことができます。それが私たちがキリスト者として生きていく希望でしょう。
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