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まず、『マタイによる福音』の9章35節から10章8節までの内容を味わっていただきたいと思います。福音でイエス様は私たちに、弟子になるために何が必要かを教えてくださいました。ただ抽象的に言葉だけで群衆の痛みと傷について話すのではなく、自ら「町や村を残らず回って、福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされる姿を通して弟子たちが今後すべき使命を教えてくださるのです。
福音は言いました。「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。」(マタイ9・36)「深く憐れまれる」という言葉は、他人の心の中にある痛みを、すなわち、自分の罪が他人に知られると恥ずかしいように、どうしても他人に言えない彼らだけの苦痛と痛みを、まるでイエス様は自身の苦痛のように痛みをともにされるという意味です。
「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない」とイエス様が言われたように、福音宣教の使命は言葉として語られるだけではなく、言葉の実践と他人の苦痛を共有する「心配り」がともに行われなければならないということです。これは、羊を自分の所有物、あるいはつまらないものとして扱わず、失った羊を探しに出る、そして深くあわれみ、羊のために命までも差し出す飼い主の姿を弟子たちに求めているのです。
兄弟姉妹の皆さん、待降節の時期は、私たちの中で誕生するイエス様を待つ時間です。神は私たちのもとに訪れてくださり、預言者イザヤの「まことに、シオンの民、エルサレムに住む者よ、もはや泣くことはない。主はあなたの呼ぶ声に答えて必ず恵みを与えられる。主がそれを聞いて、直ちに答えてくださる」(イザヤ30・19)という預言を叶えてくださるでしょう。
イエス様は、神を信じてはいるものの、その方へと進む道を失ってしまった人々を、深く憐れんでくださいます。そして、彼らへ憐れみと慈しみを与え続けることを決してあきらめられません。それゆえ、詩篇はこのように歌いました。「神は失意の人々を支え、その傷をいやされる。へりくだる人を支え、逆らう者を地に倒される。」(詩編147・3+6)
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