教皇様の願いにしたがって、去年からカトリック教会は司祭年を祝っています。
司祭だけではなく、一般の信者も司祭職の意味を考えるためのすばらしいアイディアだったと思います。
司祭は現在の荒れ野で、新しいモーセのように神の民を案内しなければなりません。
しかし、私はこの役割を考えると不安になります。
私は司祭として指導者の役割をよく理解していますが、神の民を導くよりも、むしろ神の民に導かれている気持ちを感じています。
私がよい司祭になるためにがんばることができるのは、信者のおかげです。
諦めようとすると、私の心にある強いイメージが湧いてきます。
それは信者の顔です。
そして、信者が羊飼いのいない民であると考える時、司祭の召命は新しくされます。
私は本当に信者に救われていると思います。
そして、この自分の体験から、私は“司祭になってよかった”と大きな声で言うことができます。
司祭職の使命は自分で勝手に選んだ道ではなく、神さまが教会を通して願ってくださった奉仕の道です。
キリストは唯一の司祭です。
それ以外は皆兄弟姉妹ですから、互いに指導し合い、助け合うことが大切です。
信者がいなければ、司祭の役割に意味はありません。
司祭はキリストのしるしと言われていて、信者は司祭を“神父さま”と呼びます。
けれども、司祭は“神”ではなく、“父”でもなく、“さま”でもない、ひとりの人間です。
誰でも信頼できる人を必要としていますが、気をつけなければ司祭の背中に重すぎる荷を負わせる可能性があります。
また、司祭のことを高めてしまったら、司祭はしだいに信者から離れて、信者と司祭は行き来ができないほどに遠ざかるでしょう。
そして、この距離は両者に寂しさをもたらします。
司祭になることはすばらしいことです。
司祭は人間のために命を捧げる人です。
子どもからお年寄りのために、司祭は祈って働いています。
司祭は人間として疲れ、悲しみと絶望の意味を知るようになる一方で、自分の司祭職を宝物と感じています。
司祭はキリストのように自分の使命を完全に果たすために、神さまの恵みだけではなく、信者の支えをも必要としていると思います。
皆さん、司祭のために祈って、忍耐強くなってください。
暗闇の中でもキリストの光が輝いています。
復活は私たちの使命です。
今は復活を信じる時です。
復活節はキリストの勝利の季節です。
信者の支えを通して司祭たちがキリストの復活を感じたら、たぶん皆一同に“司祭になってよかった”と言うことができます。
司祭たちの顔にキリストの復活が輝くために最後までこの司祭年を祝いましょう!