色々な宗教にとって“道”は大事な言葉です。日本の一番古い宗教の名前の中でその漢字があります。“神道”の“道”です。また、巡礼(道を歩くこと)は深い霊的な体験です。イエス様も“道”の意味の深さが分かって、こう言われました。 “私は道であり、真理であり、命である”。(ヨハネ14章6節)。 こうして、イエス様は自分自身を説明するために、“道”を選ばれました。
確かに、信じることは道を歩むことです。これはアブラハム、モーセ、聖パウロも同じ体験をしました。聖書の人物の人生を調べたら、信仰の歩みは明らかになります。イエス様もナザレからエルサレムまで道を歩きながら、救いの行いを実現されました。また、自分の使命を果たして、十字架の道を通して、命の旅の目的に到着なさいました。私たちはキリストと共に人生の目的に到着するまで、まだまだこの世の道を歩まなければなりません。
しかし、“道”は完全な体験ではありません。イエス様は“道”と共に二つの言葉をも使われました。 それは“真理”と“命”です。よく考えたらイエス様のメッセージの深さが分かります。 目的のない道は迷路になってしまって、人間の戸惑いだけを残してしまいます。現代の一つの大きな問題は、人間が“真理”を信じないことです。こうして、早く走っても(忙しさ)、ゆっくり歩いても(怠け者・無責任)、動かなくても(空しさ)、人間は戸惑ってしまいます。道の目的を失う時、方法も見失って、人間は風に吹かれている麦わらようになります。
キリストは道だけではなく、人間の真理です。キリストは人間の目標であり最も素晴らしい終点です。キリストは共に歩いてくださる道であり、導かれる真理です。人間は謙遜にこのメッセージを認めなければ、自分の命を無駄にしてしまいます。真理を探し求めて、キリストの道を歩む人は、命を見つけることが出来ます。この命は道の終点で受けられるだけではなく、終点に到着する前でも、巡礼者に力と希望を与える贈り物です。キリストに従う人は命を見つけ、その命は完全な幸せになります。
この世の中に、いろんな道があるけど、真理は一つしかありません。その真理を求めて、命を受け、幸せになることです。真理が向かうキリストの道を歩みながら、その永遠の命を受けましょう。
カトリック宝塚教会月報 2011年7月号
道・真理・命
主任司祭 パスクアル・サオリン・カマチョ神父