教会の使命は三位一体の交わりに基づいています。神様のイメージに象って、創造された人間は共同体のためのものです。神様から流れる命は愛の交わりとして、いつも相手を捜し求め、拘わります。宇宙は永遠に広がると同じように、創造の中にあるものも、自分の命を広げます。そのため、神の子は人間になった時、御父と聖霊だけではなく、自分の使命を果たすために仲間を捜し求めました。イエス様に見出された人は「弟子」ですが、実はイエス様は「友」と呼びました。

何故、イエス様は弟子を捜しましたか? 仕事(宣教)のためだけではなく、彼と共にいるためでした。この「共にいること」は、とても重要なことですが、時々教会の信徒はそれを忘れてしまいます。弟子の最初の使命は、自分の先生と共にいることです。その「一緒にいること」の事実だけで、仕事に意味があります。つまり、教会の宣教司牧はキリストに従うことの体験に基づいています。この霊的な体験がなければ、教会で働くことは趣味のようなことになって、空しいことになってしまいます。私たちは神様のため、また教会のためにたくさんのことをしたいと思いますが、祈りと秘跡を通して本当にキリストと共にいますか? 本当にキリストの存在を感じ、味わうことができますか?

私たちは、教会の信徒として、イエス様に呼ばれた人です。いい人だから呼ばれるのではありません。罪人なのに、愛されているからです。イエス様は私たちの心の汚れを貫いて、私たちの魂の奥まで入って、創造された時の私たちの心の善を見つけられました。小さな種でも、神様はその忠実の種を大切にして、私たちを信頼してくださいます。神様の信頼、赦し、愛を感じることは、この世の中で最も幸せな体験だと思います。この体験があれば、どんな悩み、辛い体験、苦悩になっても、いつも希望と信仰を守ることができます。皆さん、しばらく、教会の仕事、奉仕、活動などを考えないで、私たちの信仰の源に行きましょう。

教会はキリストと共に宣教しなければなりません。そのために色んな活動があります。今は私たちの教会は積極的に来年度のチーム、グループと司牧の組織を作っていますが、忘れてはいけないことがあります。それはわたしたちの信仰の源です。私たちは選ばれた人です。私たちは自分でキリストを選んだのではなく、キリストが私たちを選んで下さいました。そのため、教会を通してキリストの呼びかけを聞いたら、自分の信仰ではなく、神様の信仰に基づいて、惜しみない心で応えましょう! 

カトリック宝塚教会

カトリック宝塚教会月報 2012年2月号
呼ばれた人

主任司祭 パスクアル・サオリン・カマチョ神父