カトリック宝塚教会  月報「よろこび」  巻頭言  カトリック宝塚教会のロゴ
2012年11月号 「信じる-信仰年を迎えて-」
主任司祭 パスクアル・サオリン・カマチョ神父

 皆さんがご存知のとおり、今年は第二バチカン公会議の開幕から50周年にあたるため、今年の10月11日から来年の11月24日までの期間が特別に「信仰年」と定められました。宝塚教会も全世界の教会と共にこの恵みの年を大切にしたいと思います。私は皆さんの信仰の案内者として、「よろこび」の巻頭言を通して、信仰について簡単な紹介をすることを考えました。巻頭言は限られた文面ですが、出来る限り救いの歴史(聖書)と教会の伝統(信条)に従って、信仰の最も重要なテーマを説明したいと思います。最初のテーマは、「信じる」です。 

信 じ る

信じます

曇りになっても青空を信じ  真夜中でも夜明けを信じて、
どうしてあなたを信じませんか?

雪を踏んでも春の香りを信じ  涙が出ても笑顔を信じて
どうしてあなたを信じませんか?

争いの時でも穏やかな沈黙を信じ、 嘘が広がっても真理の光を信じて
どうしてあなたを信じませんか?

憎しみを感じても愛を信じ、 死の暗いマントに抱かれても、命を信じて、
どうしてあなたを信じませんか?

あなたを信じる
明日を信じるように、 命、真理、愛を信じるように
あなたを信じる


信仰年について-信仰についての説明- ①信じる
 信仰がなければ、人生はどんなことになるでしょうか? 信頼がなければ、人間関係はどうなってしまいますか?信じるとき、完全な自信が持てなくても、信仰はおろかなことではないと確信できます。信じることは悪いことではなく、とてもいいことです。
 信じるために二つの特性があります。それは「知識」と「意志」です。信徒は理性を使うことだけではなく、心をも使わなければなりません。知識がなければ信仰はおろかな考えになってしまいます。意志がなければ、信仰は抽象的、冷たい理論になってしまいます。
  信仰は神からの招きに対する人間の自由な応えです。神の招きを「啓示」と呼びます。神は啓示を通して人間に光と恵みを与えます。私たちはその光と恵みを使って、充分に神を見つけ、応えることが出来ます。このプロセスは旧約聖書から始まって、今日まで及んでいる信仰のプロセスです。この信仰のプロセスの中で疑いが現れることは珍しいことではありません。人間の応えは自由ですから、疑いと試練は信仰の体験の一部分です。実は、信仰は疑いと試練を通して成熟して強くなります。人間が気付かなくても、神は私たちの疑いと試練の中に共にいて、真理に招いてくださいます。
 信仰において、疑いと試練より信仰生活を怠るほうが危険な状態です。大切にされない信仰は結局消えてしまいます。信仰のない心はどのようにして希望することができるでしょうか? どのようにして愛することが出来るでしょうか? 
  信じることは個人的なことですが、共同体の中で行うことです。誰も一人で信じることができません。恵みとして信仰はいつも他の人から授けられる宝物です。同じように、自己満足にならないように、信仰は伝えなければならないことです。これは信仰の伝承の流れです。 : 信仰を喜んで受け、喜んで宣べ伝えること。
  信仰は抽象的なアイディアにならないように「ことば」を必要としています。そのために、教会は歴史に沿って自分の信仰を伝えるために「信条」を作りました。ある意味、信仰の信条は信仰のまとめです。まとめとして短い文章の中に深いメッセージがあります。カトリック教会のもっとも大事な信仰の信条は二つあります。一番古いのは「使徒信条」です。もう一つの信条は、「二ケア・コンスタンチノープルの信条」と呼ばれます。
  しかし、私たちは信仰の「ことば」より、信仰の内容の方を大切にします。神とつながるために信徒はシンボルを使わなければなりませんが、神の神秘は私たちのシンボルと言葉に勝ることを忘れてはいけません。従って、信じるために「道具」として聖書や、信条とカテキズムなどを使っても、信じることは希望と愛の体験であることを忘れないで下さい。
 信仰年が私たちの共同体のための素晴らしい恵みの年になるように祈りましょう。

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