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自分を捨て、自分の十字架を背負って、主イエスに従うこと |
主任司祭 パウロ朴起徳神父
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「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」(マルコ8・34) イエス様がご自分の後に従いたい人に提示した2つの条件である、「自分を捨てること」と「十字架を背負うこと」は、とても難しいことです。ところが、大変なことでも喜んでおこなえるように促す原動力は何かご存知ですか。皆さんはすでによくご存知だと思います。それは、愛でしょう。
十字架の意味は苦痛と死だけでなく、まさにそこには愛があるということです。神と隣人に対する愛のために自分を捨てることができ、愛のために与えられる十字架を背負って行くことができる、ということです。そして、十字架は犠牲の意味でもあります。人間の救いのため、神の子であるイエス様の聖なる犠牲は十字架の上で成り立ちました。また、十字架は自分の弱さも表しています。何が正しいのか、どうすれば神の御心に従うことができるのかわかっていながらも、心の中で捨てられないことがあります。聖書はこれらを嫉妬、憎しみ、怒り、赦さない心などで表します。そのような自分の弱さの実体を受け入れ、神に捧げることができる時、十字架の道は開かれるでしょう。
南米のチリでの最後の4年間、わたしは7つの教会を統合した小教区の主任司祭として奉仕しました。どこでも互いに気の合う人同士が集まるグループがあるように、そこもそうでした。7つの教会は、それぞれ特色が強く、他の教会に対しては排他的に接することも多くありました。そこの信徒の中で、マルセラという信徒はとても熱心な奉仕者でした。ところが、彼女はある奉仕者との個人的な葛藤がありました。チリ人の特徴の1つは、誰かに傷つけられて恨みを抱くと、なかなか相手を赦しません。そのため、恨みによる殺人もよく起こります。その二人の間に葛藤があったのは、お互いが言葉のせいで傷つけ合ったからでした。見た目には二人の関係は問題ないように見えましたが、心の中の憎しみや怒りなどによって相手を赦せなかったため、いつもお互い違う所で奉仕していました。彼らは果たして自分を捨てて十字架を背負って主イエスに従っていたのでしょうか?
兄弟姉妹の皆さん、主に向かう愛と犠牲をもって、自分の弱さを認めることができないと、その生き方は神の目にはどのように映るでしょうか?誰もがそれぞれに弱さがあり、それによる罪を犯して生きています。しかし、それは主イエスについていけない理由にはなりません。むしろ、それを自分の十字架として受け入れ、自分の頑なさや執着心と閉ざされた心を開くことができる時、初めてイエス様についていくことができるでしょう。
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