The Assumption of Mary Takarazuka Catholic Church
 被昇天の聖母 カトリック宝塚教会
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◆宝塚教会 月報 11月号 巻頭言◆

「福音の種が根付くために」
パウロ 朴起徳神父
 時々イエス様のみ言葉を受け入れることが難しい時があります。特に、何かをあきらめたり、変えるように求める時はなおさらです。もし皆さんは体調を崩して病院に行き、医師から何かを求められると、どのような選択をしますか。例えば、それがたばこを止めることであれ、お酒を止めることであれ、命にかかわることであれば、ほとんどは医師の処方通りにするでしょう。なぜですか。答えは簡単明瞭でしょう。それは生きていきたいからです。

 それでは、永遠の命と神の国へと招く主のみ言葉に皆さんはどのように反応しますか。皆さんは「種を蒔く人」のたとえをご存知だと思います。まず、『マタイによる福音』の13章18節から23節までの内容を味わっていただきたいと思います。道端、石だらけの所、茨の中、良い土地に例えられたものの共通点は何でしょうか。それは、いずれも主のみ言葉を聞く人を意味します。さて、福音によると、良い土地を持つ人は聞くことだけにはとどまりません。その人には道端、石だらけの所、茨の中には存在しない特別なものがあります。それは、聞いて悟るということです。「良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人である。」(13・23) 聞くことを通して悟り、その悟りを通して考えと生き方が変化する実を結ぶということです。

 ところで、その悟りは果たして何に対する悟りなのでしょうか。それは「神の国」に対する悟りだと言えます。私たちの人生はこの世では終わらず、永遠に共にする神の国が必ずあるということ、そしてその国には死の後にだけ行ける場所ではなく、今自分が生きている此処こそが神と生きていく場所であるという悟りです。その人はみ言葉を聞くことで、利己的な傲慢さの壁を越え、日常の中で真の命を得るために神の御心に従うように努力します。そして、自らのその努力は他人に自慢しません。

 最後に、福音が教えてくれるもう一つの重要なことを注意深く見てみたいと思います。「だれでも御国の言葉を聞いて悟らなければ、悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る。道端に蒔かれたものとは、こういう人である。」(13・19)サタンは何とか私たちの心に蒔かれたものを奪い取ろうとします。今でもサタンは、蒔かれた種をかじるために、私たちの周りで一生懸命自分の仕事をしています。

 私たちはどのように主のみ言葉を受け入れているのか、じっくり考えてみれば良いと思います。すぐ喜んで受け入れたとしても、私たちには根がないので、人はすぐに忘れてしまいがちではないか。御言葉を聞いても、世の思い煩いや富への誘惑が御言葉を覆いふさいで、実らない人ではないのか。イエス様は言われました。「良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人である。」(13・23)

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